「もし、ダウン症だったら堕ろしてた」

こんにちは。「なったら」です。

今日は先日、会った友人の話をします。タイトルはその時の友人の発言です。

友人はナースで不妊治療をして、子供を授かった。おめでとう!

そして、出生前検査を積極的に行った。

「障害児を産んだらその子供が可哀想。私には育てる自信がない」少しでも異常の可能性があれば自分には育てられないと言っていた。

私の息子は出生時は異常は指摘されなかった。まだ、息子の急性脳症についての経過をブログではまとめていないが、妊娠中は問題なく、出産も普通分娩だった。

心の中で私は「いやいや、普通に産んでも障害が残る可能性だってあるよ?」

と思ったけど、自分が逆の立場であればそんなこと言われても気分が悪くなるしな、と思って言わなかった。

人間は生まれつきの優秀さを重視する。それは本能的なものもあるし、

「普通」と言う感覚から外れてしまうと疎外感を感じるようにできているのだと思う。

日本人は特に流されやすいから、

「ダウン症は不幸せだ」と思っている環境で過ごせば、そう信じるし

「ダウン症であっても幸せだ」と思っている人の周りで過ごせば、そう思うようになると思う。

私が思ったのはお腹の中で生きている命を、親が切ってしまうのか、と言うことだった。

息子が脳症になって、子どもが生きている、と言うことは当たり前ではなくなった。

「いつか必ず人間は死ぬのにわざわざ染色体上の優劣をつけて殺してしまわなくてもいいんじゃない?」と思うし

「育てる親の身になったら、障害がある子供がいる時点で死ぬに死ねないし、他の人に迷惑をかけて、本人自体も可哀想」とも思う。

医学が進みすぎて「死」さえも選択できるようになった。

日本では安楽死は認められていないが、欧米諸国では認められているから今後その方向に進む可能性も出てくる。その時、わたし達は死ぬ時期も選べるようになるかもしれない。

問題はそれで「幸せ」になれるのかと言うことだと思う。

論点がずれそうなので話を戻すと、ダウン症だったら中絶するか、の問いに私自身は「わからない」と返す。それは逃げだと言われそうだが、検査を受けるのも受けないのも本人の自由だ。選択肢が少ない方が選びやすい。楽天的だと言われそうだが、私は出世前診断は受けずに「生まれた時に考えればいい」と思う。

人生では受け入れられないほどの不幸なことは山のように起こっていて、それを全て除去できるとは思っていない。なるべく除去して、できることは全てしたい気持ちも分かる。でも、子供の命を断つことの決断をダウン症であろうが他の染色体異常であろうが私はできない。生まれて不幸せになるかもしれない。でも幸せになるかもしれない。不幸になる可能性だけでなく、幸せになる可能性を断ち切ることができないから、結局答えは「わからない」になるのだと思う。

でも、もし、障害児を産んだことで子供自身に責められたら、どうしようか。

私は「お母さんはあなたが障害があってもなくても、どうしてもあなたに会いたかったから」と誠心誠意伝えようかな、と思う。酷い親だと罵られても、無責任な親だと言われても、それが一番の私の気持ちだから、許してね、と抱きしめるしかないのかなと思う。

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